中世における神とはどのようなものか

 前回の記事で中世において神の存在証明は神が存在することを前提にして書きましたが、それでは神は中世においてどんなものであったのか、について学んだことをうらつらと書いていきたいです。

 まず中世において近代のように神は人格化しておらず、非常に哲学チックな捉え方をされていました。
 クラウス・リーゼンフーバーは『精神の神への自己超越』という著作で、神とは精神では把握できないもの、把握した瞬間ただちにその把握を超越してしまうものであると述べています。つまり神を完全に理解することはできるものではないと。
 トマスアクィナスは神学大全で神を「自存する存在そのもの」と述べています。この神様=存在という考えは古代からあり、旧約聖書のexodusで、モーセが神の「あたなの名前は?」と説いたところ、神は英語に訳すと「I am that I am」、日本語なら「私はあるというものである」と答えたそうです。
 これに関連した話としては、ヨハネ福音書で面白い話があります。イエスを捉えに来た人がイエスはどこにいると質問し、イエスが「私である=I am=私はある 」と言ったところ、周囲の人がばたばたと倒れた。これはイエスが神であるという証明だと捉えられます。

 こうは言ったものの、神は存在そのものであるとはどういうことかと言うのは、正直よく分からないのですが、感覚的には全ての存在を含んだもので、存在しないことを疑うことすらできないものだと、とりあえず僕は理解しました。