中世における理性と信仰の関係(2)

最近、プロスロギオンというトマスアクィナスと異なる神の存在証明を呼んだのですが、これがなかなか強烈で、第一章は議論ではなく、ほとんど神に対する熱烈な祈りみたいなもので、証明としては現代から見るとかなり奇妙なんです。そして一章の最後ではこう言っています。

 私の心が信じまた愛しているあなたの心理を。いくらかでも理解することを望みます。そもそも私は信じるために理解することは望まず、理解するために信じています。私は「信じていなかったならば、理解しないであろう」ということも信じているからです。
『中世思想原典集成7 前期スコラ学』より

 つまり彼の神の存在証明は、神が存在していることを信じた上で、神をより理解するためのものなんです。つまり神の説明のようなものだと言えると思います。実際、現代の証明と中世の証明の捉え方は違うのではないかとという観点もあるそうです。神の存在を信じたことを前提にして議論を進めるのですから、その前提を共有していない僕が議論の進め方に違和感を感じるのは当然かと。
 しかしながら、この信じることで物事を理解するという考えは宗教特有ものではなく、現代においても、そして宗教以外にも当てはまるでしょう。例えば歴史。多くの人は教科書や本などを通じて、歴史の知識を深めますが、実際の一次資料や二次資料を見たわけではない。もっと言えば、それらの資料も穿った目でみれば必ずしも正しいものとは完全にはいえない。科学においても、初めて学ぶ人にとって、宗教みたいなところがあるでしょう。(もちろん科学は実験という手段を導入して、普遍性を確立したし、常に修正を繰り返して構築したものですし、まったく同じというわけではありません)
 何が言いたいかと言うと、ようするに信じることと理解はそこまで対立するものではない。中世の人たちが神の存在を信じていたように、僕もまた何かを信じることで、物事を理解しているところがある。問題は、この信仰が中世ほど強固ではなく、たえず疑われたり試されたりして、ふらついているということ。