己を「偽物」認めながらも、動機を再び設定する

さて、今日から新生活が始まることを記念して、この一年間考えたことの中で今の自分のスケールにあったことを書いてみようと思う。もともとtwitterに流す予定だったけど、長すぎるので急遽ブログの記事にしました。

内容としては二週間前に呟きの続きで、一度動機を喪失しならがらも、行動不能という負のスパイラルから脱出した人間は再び動機を得るにはどうしたらよいかというものです。

とりあえず、心理学者の岸田秀さんが唱える「人間は本能が壊れた動物である」を前提とし、人間の自我というのを、外部と反応して絶えず変形する、一定の方向性の持たないエネルギー的なものと考えます。よって、「本当の自分」というものは、他者や世界を拒否して、ナルシズムの檻に閉じこもっても見つからないもので、常に外部との関わりの中から見つけるものとします。

さて、本能が壊れた人間というものは、極端なことを言えば、なんにでもなれる存在です。ですが裏返せば、それは何者でもないということを意味します。しかし、人というのは生まれた直後から、周囲から役割(性別の役割や家族の中の役割)を与えられたり、自分から周囲が期待する「あり方」を学習して、無意識にそのあり方に自我を設定してします。また、何らかの体験や、他者への憧れから、自我にある程度の方向性が与えられることもある。

そうやって知らず知らずのうちに動機を得るのですが、一度挫折を経験し、無意識に取得していた動機を手放さざるを得なくなった場合、もう一度動機を設定するのは非常に難しい。特に大人になるにつれて。

外部との関係から自我を設定するがゆえに、ほとんどの人間のあり方はパロディに溢れていて、オリジナリティがないように見える。特に漫画、小説、TV,ネットなどから毎日膨大なあり方のテンプレートを得ている現代において、ほとんどの人のあり方は模倣品と言えるんじゃないか。ふと自分の今の行動を俯瞰して客観視してみると、何らかのテンプレに当てはまっていると感じて、気恥ずかしさを感じることはないだろうか。

ここで問題としているのは、本当にその人のあり方が模倣にすぎないか、ということではなくて、自分のあり方をを認識してみると、必ずそこにパロディの影がつきまとってしまうという認識のあり方です。ある程度自意識が発達し、無数のテンプレを学んだ私たちにとって、自分のあり方が何らかの模倣であるという感覚は拭い去れない。とは言っても、長年染み付いたあり方に関しては、そこまで気をもむ必要はないと思う。

問題は新しく動機を設定する人の場合、このパロディ感が障壁になる可能性がある。曰く、「自分のあり方はかっこよいテンプレをまねただけの「偽物」なんではないのか」という悩み。特に一度挫折を経験した人にとって、もう一度挫折(=今までのあり方を放棄)を経験するのは避けたいので、でき強固な動機るだけ欲しい。なので、この「偽物」であるという感覚を好ましくないし、「本物」に対して劣等感を持ったりしてしまう。そこで、またあてもない自分探しに入ったり、あるいは他者や正しさに依存して、その劣等感を打ち消そうとするなどして、「本物」になろうとする。しかし、それはやはり「偽物」に過ぎないと思う。いつか世界のしっぺ返しによって、その思い込みは崩れさるだろう。

そもそもほとんどの人のあり方の根源は模倣から出発したものだし、最初からオリジナルの人生を歩む人などまずないのではないか(結果として「本物」と見なされる人は多くいると思うが)だから動機を再設定するとき、自分が「偽物」であると感じることを受け入れるべきだと僕は思う。

動機、在り方を意識的に再設定をして、己を「偽物」だと感じる者にとって、動機を行動の活力とすることは望めない。己のあり方からパロディ感をぬぐいさるためには、絶えず、そのあり方に見合う行動と結果を必要とする。そう、そういう人は一度動機を再設定すればそれで終わりなのではなく、絶えず自己証明をする必要があるのだ。だからこの場合、過程が重要となる。人との触れ合い、何らかの体験、行動の結果、それらが血肉となって、その人の活力となる。そして、たとえ「偽物」であっても、そのあり方に見合うほどのエネルギーを注入することができれば、出てくる現象は「本物」になる。物語の王道が何度も再生してくるように。本人が自己をどう認識しようと、その人を本物とみなし、憧れて模倣する人が出てくる。その在り方は結果として、「本物」の在り方といってさしつかえはないのではないだろうか。

「偽物」の在り方は、この一通りではなく、いろいろと考察できると思うけど、自分としてはこのあり方が今のところ腑に落ちます。とりあえず今僕が出せる結論はこのようなもので、しばらくはこの考えに従って行動しながら、いろいろと考えようと思います。



蛇足だけど、この話を少し発展してみる。

先ほど、何にでもなれるということは裏返してみれば何でもないということだ、といってが、でもそれはやっぱり何ででもなれるということだ。人間はそれまでの生き方に影響されて、向き不向きはあるが、自己の認識を無数の様式に委託して、様々なものを感受できるのだ。中島梓さんがいうように、現代の病とされる、相対性、多様性、個人の非重要性が、逆に僕たちの力として享受できる。くだらないもの崇高なもの、矛盾する両方を感受できる感性を持ちえる。

一つの己のあり方に埋没するのは、あまりにも不器用すぎると思う。だから僕が最終的に望むのは、対立し、矛盾する様々な在り方が混在し、絶えず変化するダイナミズムでありながらも、バラバラに崩壊しない自律性を保ちえる道?なんだろう。そして、その時にキーとなるのは「物事を楽しむ」というシンプルであり、それを体現しているのがfate遠坂凛だと思う。

まあ、まだこれを望む段階に入っていないけど。